雄朝津间稚子宿祢尊 | |||||||
雄朝津间稚子宿祢天皇 | |||||||
陵墓: | 河内长野原陵 | ||||||
|
系谱
仁德天皇的第四皇子。母亲是磐之媛命(いわのひめのみこと)。 履中天皇和反正天皇的同母弟。以下是其后妃和子嗣列表:
* 皇后:忍坂大中姫(おしさかのおおなかつのひめ)
o 第一皇子 木梨轻皇子(きなしのかるのみこ)
o 第一皇女 名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのみこ)
o 第二皇子 境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)
o 第三皇子 穴穂皇子(あなほのみこ,后为安康天皇)
o 第二皇女 轻大娘皇女(かるのおおいらつめのみこ)
o 第四皇子 八钓白彦皇子(やつりのしらひこのみこ)
o 第五皇子 大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ,后为雄略天皇)
o 第三皇女 但马橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのみこ)
o 第四皇女 酒见皇女(さかみのひめみこ)
略历
反正5年(410年)1月,反正天皇在未立皇太子的情况下驾崩。群臣商讨后欲推举雄朝津间稚子宿祢尊为天皇,不过本人以健康理由辞退。皇位维持空位。
允恭元年(412年)12月、在忍坂大中姫的强烈请求下即位。
3年,自新罗请来医者为天皇治病。
4年(415年)9月、因氏族故意假借贵族之姓,特以飞鸟甘樫丘的盟神探汤(古传之占卜法,或手入沸水沸泥,或置烧斧于掌,皆见其手有否溃伤之状,用以占凶吉,辨是非。)以辨真伪,将诸氏族的氏姓拨乱反正。
24年(435年)、前年木梨轻皇子立为皇太子、却与同母妹轻大娘皇女通奸。以占卜判明后,轻大娘皇女被流放到伊豫(→衣通姫伝说)。
42年(453年)1月驾崩。新罗王派遣八十乐人为使者致祭。崩年78岁(古事记),另有一说为81岁(日本书纪北野本)。
谥号・追号・异名
雄朝津间稚子宿祢天皇(おあさずまわくごのすくねのすめらみこと)。
中国的‘宋书’・‘梁书’称为倭五王中的倭王济。
宫
都城的远飞鸟宫(とおつあすかのみや,现在的奈良县高市郡明日香村飞鸟か)。
陵墓・灵庙
葬于河内长野原陵(えがのながののきたのみささぎ)。埋葬于大阪府藤井寺市国府1丁目国府市野山古坟(前方后圆坟・全长228m)
允恭天皇 いんぎょう 412年12月 453年1月14日
时代 古坟时代
皇居 远飞鸟宫
讳 雄朝津间稚子宿祢尊
别名 倭王济
逝世 453年
谥号 雄朝津间稚子宿祢天皇
陵墓 河内长野原陵
父亲 仁德天皇
母亲 磐之媛命
皇后 忍坂大中姬
妃 衣通郎姬
皇子 木梨轻皇子
境黑彦皇子
穴穗皇子(安康天皇)
八钓白彦皇子
大泊濑稚武皇子(雄略天皇)
皇女 名形大娘皇女
轻大娘皇女
但马橘大娘皇女
酒见皇女