君主 人物列錶
允恭天皇 Ingō-tennō安康天皇 Ankō Tennō雄略天皇 雄略 Emperor
清寧天皇 Qing 宁天皇繼體天皇 Following the body of the Emperor
允恭天皇
君主  (?412年453年元月14日)
雄朝津間稚子宿禰尊
雄朝津間稚子宿禰天皇
陵墓: 河內長野原陵
開端終結
在位412年453年

  允恭天皇(? - 453年1月14日)是日本第19代天皇(在位412年12月 - 453年1月14日)。名雄朝津間稚子宿禰尊(おあさずまわくごのすくねのみこと)。古墳時代的天皇。
  
  係譜
  
  仁德天皇的第四皇子。母親是磐之媛命(いわのひめのみこと)。 履中天皇和反正天皇的同母弟。以下是其後妃和子嗣列表:
  
   * 皇后:忍坂大中姫(おしさかのおおなかつのひめ)
   o 第一皇子 木梨輕皇子(きなしのかるのみこ)
   o 第一皇女 名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのみこ)
   o 第二皇子 境黒彥皇子(さかいのくろひこのみこ)
   o 第三皇子 穴穂皇子(あなほのみこ,後為安康天皇)
   o 第二皇女 輕大娘皇女(かるのおおいらつめのみこ)
   o 第四皇子 八釣白彥皇子(やつりのしらひこのみこ)
   o 第五皇子 大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ,後為雄略天皇)
   o 第三皇女 但馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのみこ)
   o 第四皇女 酒見皇女(さかみのひめみこ)
  
  略歷
  
  反正5年(410年)1月,反正天皇在未立皇太子的情況下駕崩。群臣商討後欲推舉雄朝津間稚子宿禰尊為天皇,不過本人以健康理由辭退。皇位維持空位。
  
  允恭元年(412年)12月、在忍坂大中姫的強烈請求下即位。
  
  3年,自新羅請來醫者為天皇治病。
  
  4年(415年)9月、因氏族故意假藉貴族之姓,特以飛鳥甘樫丘的盟神探湯(古傳之占卜法,或手入沸水沸泥,或置燒斧於掌,皆見其手有否潰傷之狀,用以占兇吉,辨是非。)以辨真偽,將諸氏族的氏姓撥亂反正。
  
  24年(435年)、前年木梨輕皇子立為皇太子、卻與同母妹輕大娘皇女通姦。以占卜判明後,輕大娘皇女被流放到伊豫(→衣通姫伝說)。
  
  42年(453年)1月駕崩。新羅王派遣八十樂人為使者致祭。崩年78歲(古事記),另有一說為81歲(日本書紀北野本)。
  謚號・追號・異名
  
  雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさずまわくごのすくねのすめらみこと)。
  
  中國的‘宋書’・‘梁書’稱為倭五王中的倭王濟。
  宮
  
  都城的遠飛鳥宮(とおつあすかのみや,現在的奈良縣高市郡明日香村飛鳥か)。
  陵墓・靈廟
  
  葬於河內長野原陵(えがのながののきたのみささぎ)。埋葬於大阪府藤井寺市國府1丁目國府市野山古墳(前方後圓墳・全長228m)
  
  允恭天皇 いんぎょう 412年12月 453年1月14日
  時代 古墳時代
  皇居 遠飛鳥宮
  諱 雄朝津間稚子宿禰尊
  別名 倭王濟
  逝世 453年
  謚號 雄朝津間稚子宿禰天皇
  陵墓 河內長野原陵
  父親 仁德天皇
  母親 磐之媛命
  皇后 忍坂大中姬
  妃 衣通郎姬
  皇子 木梨輕皇子
  境黑彥皇子
  穴穗皇子(安康天皇)
  八釣白彥皇子
  大泊瀨稚武皇子(雄略天皇)
  皇女 名形大娘皇女
  輕大娘皇女
  但馬橘大娘皇女
  酒見皇女
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